天皇崇拝に基づく神殺しが実施された頃には、すでに天皇は神の子孫であるという信仰があったのでしょうか。

むしろ、大王が天皇になること、すなわち自然神(神祇の区別でいえば地祇に当たる)を超える存在であることが、開発と対になって展開されたというべきでしょう。その典型が藤原京の造営です。これは日本最初の本格的な都城で、極めて大規模な土木工事によって建築されました。そのため、計画が開始された天武の頃から、陰陽五行をはじめとする中国的な卜占・呪術が援用され、正当化の企てがなされてきました。持統は、撰善言司という機関を作り、後に律令編纂や漢詩・和歌の作成に名を残す文人貴族に加え、造営に知識・技術のあった人物を任官させ、藤原宮・京を祝福する言説形式を創出する作業を行わせます。柿本人麻呂の創案した「大王は神にしませば」「神ながら」といった天皇即神表現は、この過程で整備され、「藤原宮の役民の歌」や「藤原宮の御井の歌」に結実してゆくわけです。持統は何度も工事現場へ行幸しており、これらの「天皇を神と讃える」歌は、そうした場で詠われたものと考えられています。条里制のモデルとなるような条坊制の敷設、多くの木材や石材を用いた宮殿・寺院の建築の達成は、これを成し遂げた持統の現御神化を証明し、律令都城・貨幣を具備した天皇となる文武の存在を準備してゆくのです。