木のまな板をかんなで削ってもらったら、若返ったかのような顔になりました。神社の柱をまるごと替えるのはもったいないと思います。削ってきれいな色にして、細すぎて建物を支えられないというくらいになるまで使ってから交換する、ということは試みられなかったのでしょうか。

これは面白い質問です。というのは、自然を大切にしているかにみえるいわゆる「もったいない」という発想は、自然を資源としかみなくなってゆく一過程と捉えられるからです。神に対して何かを供える場合には、自分にとって最も大切なものを供えなければならない、それが供犠のそもそもの原則であったと考えられています。すなわち供犠の原初形態において、神に供えられるものは人間であったわけです。当初は血族、それが同じ共同体、他の共同体、異邦人などへと次第に外部化されてゆき、やがては動物、あるいはそれらを象ったモノや食物に転化されてゆく。そうした論理からすれば、神の住まう正殿や、その象徴たる柱は、常に新しいものである必要があったのです。式年造替という発想は、現実的には樹木自体の耐用年数と関係があるといわれていますが、さらに根底には、そうした供犠の思想が流れているものと思われます。ちなみに、神社の正殿と建築論理を同じくした天皇の宮殿では、遷都のたびに使用可能な木材は転用するようになり、かわりに理念的に空間を刷新する祭儀を発展させてゆくようになります。現在では、例えば伊勢神宮の古材などは、式年遷宮を通して役目を終えると、地方の神社の建て替え用に転用されてゆきます。