縄文時代に日本へ渡ってきた人々の形質には、どのような相違があったのでしょうか。

形質人類学的には、一般的にいわれているような、がっしりした体格で体毛の濃い縄文人、痩せ形で身長の高い弥生人といった区別は、もちろん種々の例外や多様性を含みながらも、まったくのでたらめではありません。ただし、現在のDNA分析は、さらに多種多様な日本列島に暮らした人々の起源を語ってくれています。近年のDNA分析では、ハプログループという概念がよく使用されます。これは、DNAの塩基配列のうち、一塩基の変異する多様性を共通に持つグループのことで、数万年単位でみれば祖先を同じくする集団とみなすことができます。現在、このハプログループのデータは広範囲かつ大量に集積されていますので、遺骨から採取したDNAを分析し、それがいかなるハプログループに属するかを解明することで、その個体が、人類の故地アフリカからいつどのようなルートで移動してきた集団に属するかを推定することができるのです。この方法によって縄文時代の関東の人々を分析してみると、現代日本人に最も多いハプログループD(35000年前に誕生、南回りで東アジアに入り、同地域に最も広汎に広がったグループ)がそれほど多くなく、ともに40000年以上前に誕生し中国南部から東南アジアにかけて分布するBやF、中央アジアに分布するMなど多種多様で、複雑な歴史過程を経た多くの集団が列島に辿り着いたことを示しています。また、遺跡ごとの偏りも顕著で、茨城の中妻遺跡で採取された縄文人の骨は、朝鮮半島中国東北部に分布する人々に特化した類縁性がみられます。同じ縄文人といっても、複雑な来歴を持つ人々が生活していたことは間違いなさそうです。
1461506793*[日本史概説 I(16春)]縄文時代、人々が移動する場合、何か持ち物は運んでいったのでしょうか。
いわゆる富のようなものは存在しませんので、移動中、もしくは移動した先で食糧を得るために不可欠なものに限られたでしょう。持ち運ぶことによって労働効率の下がるものは、放置していったものと考えられます。しかし、次回に詳しくお話ししますが、これに関連して興味深い運搬物は「骨」です。縄文前期から中期にかけて、大規模集落が離合集散を繰り返す際に、再び集まった集落の中心に骨が再合葬される事例がみられるのです。これは、共同体を結びつける「祖先」としての役割を果たしたのではないか、と推測されています。