涅槃図では多種多様な動物たちが出てきましたが、なぜ架空の動物と実際にいる動物とが一緒に出てくるのでしょうか。
仏教の経典には、割合にたくさんの動物たちが出てきます。例えば、『成実論』という書物には、どのような行いでいかなる存在に転生するかを書いた箇所に、「……もし人が善行に混じって不善の業をなすならば、そのために畜生に堕ちる。また煩悩が激しく盛んなら、そのために畜生に堕ちる。性欲が盛んであるために、雀・鵒・鴛鴦などに生まれる。怒りの心が盛んであるために、蚖・蛇・蝮・蠍などに生まれる。愚かな心が激しいために、猪・羊などに生まれる。傲慢な心が激しいために、獅子・虎狼などに生まれる。落ち着きのなさが激しいために、猨猴などに生まれる。吝嗇で妬む心が激しいために、狗などに生まれる。このようなことである。これ以外の煩悩の激しさによっても、、様々な畜生に生まれてくる。もし少しでも布施を行っていれば、畜生に生まれてもそのなかで楽を得る。金翅鳥・龍・象・馬などに生まれるのである。また、口業の報によって、多く畜生に堕ちる。もし業果の報を知らず、信じていなければ、そのために様々な口業をなしてしまう。もし軽率な言動が猨猴のようであれば、そのとおり猨猴に生まれる。もし貪るような言葉を使い、鳥の囀るようであったり犬の吠えるようであったり、愚かさが猪や羊のようであったり、声が驢馬の鳴くようであったり、歩みが駱駝のようであったり、高慢さが象のようであったり、乱暴なことが怒った牛のようであったり、淫らなことが鳥や雀のようであったり、びくびくしていることが猫や狸のようであったり、諂うことが狐のようであったり、媚びることが黒羊のようであったり、毛の多いことが牛のようであるなどの者は、悪口の業によってその種の畜生に堕ちる報を受ける。……また経には次のように説いている、「狭いところで死んだなら、広い場所を得たいと願うために、空を飛ぶ鳥に生まれる。もし渇きのために死んで強く水を求めれば、そのために水中で生活するものに生まれる。食を貪る心を強く残して飢え死にすれば、そのために厠などのなかに生まれる。…… またもし負債を抱えたまま返さずに死ぬと、牛・羊・麞・鹿・驢馬などに墮し、人に使われて前世の負債を償う。……」などと細かく記されています。『法華経』その他には動物を主人公にした例え話もあり、釈迦の前世を描いたジャータカのなかにも、動物について描いたものが残っています。涅槃図の動物たちも、そうした「仏教での頻出」を手がかりにしているのでしょう。なお、上記のなかにも伝説上の動物と現実の動物とが混じり合って出てきますが、当時はそうした区別は意味を持ちませんでした。例えば中世の日本人は、象や獅子、あるいは虎ですら実際にみたことはなく、その意味では鳳凰や麒麟、龍と同じだったのですから。