観音塘にある、老婆が巨大な岩を背負い唐軍を全滅させたという伝説は、化身とはいえ菩薩が大規模な殺生を犯すという点で違和感を覚えました。
以前、日本でオウム真理教事件が起きたとき、ポアという概念が問題視されました。すなわち、その生命が将来的に悪業をなすと分かり、その影響で他の多くの生命が災禍を被ると分かっている場合、悪業によって自分自身を苦しめることになるその生命のためにも、菩薩は彼を殺すことができる。そうした考え方は、仏教のなかに確実に存在するのです。古代、中国や朝鮮、日本で行われた国家鎮護の仏教は、まさにそうした考えを利用したものといえるでしょう。すなわち、上記の伝説においては、平和な大理を攻撃する唐軍こそが悪であり、彼らが無垢な大理の人びとを殺して悪業をなす前にその生命を絶つことは、その悪業によって恐らくは地獄などへ落ちてしまうであろう唐軍の兵士をも救済することになるのだ、という考えが成り立つのです。いうまでもなくこれは怖ろしい論理で、いかなる悪用も可能です。オウム真理教の事例がまさにそうでした。仏教ではそれを、菩薩でなければならない(教団や世界において覚知の求道者として公認された者)、仏陀でなければならない(覚知を得た者)と、前提付けることによって戒めているのです。