もともと、六詔を生み出してゆく彝族の社会が信仰していたのは、木で作られた柱であったと思います。洱海地域が交易上重要な位置をなし、吐蕃や唐が接近して国家形成に至るプロセスを考慮すると、そのなかで立柱の金属化が行われたのでしょう。日本でも弥生時代に、輸入した青銅を用いた祭器の青銅化が図られます。銅鐸などは、それ以前は土鈴であったことも否定できません。西南少数民族の立柱も国家化のなかで金属化したものの、南詔が滅亡し、大理が滅んだあと、再び木材化したということでしょう。あるいは民間においては、木材の立柱が持続的に使用されていた可能性も充分にあると思われます。