青銅器祭祀から墳丘祭祀への魁となった出雲地域が、後に出雲大社などに代表される宗教的、政治的に重要な場所となってゆくことには、何か関わりがあるのでしょうか。
それはありますね。まず、弥生時代の政治的グループは、その後の古代の豪族勢力の基本をなしてゆきます。北九州、出雲、吉備、東海は、ヤマト王権のなかでも大きな力をなす集団を形成します。なかでも出雲は特殊で、王権に服属する集団の象徴であり、また宗教的な核をなすように位置づけられてゆきます。国譲りの物語は有名すぎるくらい有名ですが、それらに基盤を置きつつ、出雲国造は、代替わりごとに朝廷へ赴き、「神賀詞」という服属の誓詞を奏上します。出雲が朝廷によって他界との境界に定められ、黄泉国と関連づけられることも重要です。弥生時代からの経緯を考えると、出雲の政治グループは王権に脅威を与えるほどの宗教的権威を持っており、これを服属させるのが困難であったことは確かでしょう。青銅器祭祀から墳丘祭祀へ早くに移行したことは、それだけ同グループの政治的展開、すなわち強力な首長の出現、首長権力の形成が早かったということです。その蓄積自体、ヤマト王権には畏怖すべき意味を持っていたのかもしれません。