『魏書』では卑弥呼は婚姻していないとされているのに、なぜ神功皇后と同一視されたのでしょうか。卑弥呼のモデルは、箸墓古墳のヤマトトトヒモモソヒメであると聞いたことがありますが…。 / 高校の先生に、卑弥呼は天照大神のモデルだと聞いたのですが、そんな説はあるのでしょうか?

日本書紀』が『魏書』の卑弥呼に関する記述を神功皇后紀に配したのは、『魏書』の記述をすべて正当な事実と認めたわけではなく、景初二年の女王朝貢神功皇后の時代に争闘するものとし、正史としての客観性をアピールしようとしたものでしょう。よって、卑弥呼自身や支配体制に関する記述の真正さについては言及しておらず、無頓着です。ヤマトトトヒモモソヒメについては、『書紀』『古事記』に関する記述が極めてシャーマニックであること、ヤマト王権最初期の前方後円墳である箸墓の被葬者とされていることなどから、同一人物説が主張されました。しかし、継体天皇以前の『書紀』『古事記』の記述をそのまま史実とはみなしがたいこと、ヒメは女王ではないこと、箸墓は明らかに大王墓であって単なる王族女性の墓とはみなせないことなどから、現在ではそうは考えられていません。しかし、箸墓至近の纒向遺跡邪馬台国の遺構と認める立場からすれば、女王卑弥呼に対する何らかの記憶がヒメ埋葬の箸墓伝承に繋がった、と考えることは可能でしょう。なお、ヒミコをアマテラスのモデルとする見方には根拠がありません。ただし、ヒミコがヒノミコの意味だとすれば、アマテラスも別名オホヒルメノムチすなわち太陽を祭祀する尊貴な女性ですので、女性祭祀者としての繋がりはあるといえます。
なお、実は近年の研究で、卑弥呼は婚姻していたのではないかとの見解もあるのです。卑弥呼にはその飲食に独りだけ給仕していた男性の存在が知られていますが、彼が夫だったのではないかというのです。日本と同じ時期に女帝を輩出している新羅では、7世紀の善徳女王や9世紀の真聖女王に「匹」と呼ばれる存在がおり、彼らは高い位階を持ち女王の活躍を補佐していました。真聖女王の匹魏弘などは、新羅官制の最高位大角干にあり、「王、素より角干魏弘と通ず。是に至りて常に内に入れ事に用ゆ」(『三国史記新羅本紀、真聖王2年2月)と記録されています。のちに「恵成大王」とも追諡されており、王に近い立場にあったことが分かります。ヒミコの「男」も、彼らと同じ存在であった可能性があるのです。