神仙思想は、古墳時代の日本に広く知られていたのでしょうか。あるいは、一部のみに伝わっていたのですか。
銅鏡など神仙思想を表すモノは、王権のトップから地域のトップへ伝来していたでしょうし、前方後円墳が神仙思想に基づくものなら、その意味するところは教示されていたはずです。7〜8世紀にみられる神祇関係の記録、祭祀の祝詞や次第をみていると、古代の神祭りのあり方、神観念のあり方には、すでに相当「中国的なもの」が入り込んでいます。例えば、神祀りを担う中心的氏族であった中臣氏、その氏族名のナカトミは、神と人の間を取り持つという意味でのナカツオミとされていますが、恐らくは中国後漢の字書『説文解字』にある「史」の本義「中正」に由来するものです。中国の史官は本来、祭祀を担う祝官、卜占を担う卜官と一体のもので、神の意志を知る卜占、神への対応を実践する祭祀の参考材料となる歴史、神話の記録・管理を職掌としていました。中臣氏の職掌もまさにそれで、中国的史官に準えて設置された氏族と考えられます。7〜8世紀には、地方でも道教的な祭祀がみられはじめますので、地域の政治的中心、あるいは渡来系氏族の勢力範囲などから、次第に喧伝され広がっていったことが考えられます。この浸透力は非常に大きく、時代は降りますが、物語のはじめの祖と呼ばれる『竹取物語』を生み出し、七夕伝承や天人女房譚などを、民間伝承や昔話として根付かせてゆくことになります。