箸墓古墳を造営するのに、延べ135万人も労働力を動員したとありましたが、仮にヤマト王権が畿内であった場合、現在のどの市、県の規模があったのでしょうか。また、そのような多人数をまとめるシステムは、何を例としたのですか。 / 当時のヤマト王権の王たちは、どのような手段を用いて、治水工事などの人員を確保していたのでしょうか。
ヤマト王権の勢力基盤は畿内で、その核となる部分は畿内豪族の結集体とでもいえるでしょう。これからお話ししてゆきますが、大王家には幾つかのグループがあり、箸墓を生み出した奈良盆地のグループ、大仙陵古墳を生み出した河内平野のグループが主要なものです。前者は中国王朝、後者は朝鮮半島との繋がりが強かったと考えられます。古墳は主に、自らの勢力基盤に構築されていますので、直轄の人民を、ある程度農繁期などのサイクルに注意しながら使役し、完成させていったのでしょう。7世紀になると、造宮のために東西の人民を徴発するという話が出てきますが、まとまった人数を中央に召集するということは、交通体系の整備も伴っていなければならず、古墳前期・中期の段階では困難であったと思われます。治水などの困難な開発については、渡来系氏族、あるいは土木関係の専門的な知識・技術を持つ氏族集団を核に、周辺の人民から労働力を編成して対応していると考えられます。それがどの程度の規模、範囲に及ぶかというのが、権力の大きさ、堅固さを表すことになるのでしょう。