山と里・平地の対立が東アジアを中心に各地でみられたという話だが、それは里に住む人々にとって、山が神秘的な存在であったからこそ、そこに住む人々も人間離れした存在と考えたのだろうか? / 山で修行もするのに、なぜ差別的な四川でみるのでしょうか。 / 西洋の聖書的自然観において、自然と人間など、二項対立的な事例はあるだろうか。

ひとつにはそのとおりです。山は恐ろしい獣のほか精霊なども跋扈する世界と捉えられていたので、そこに生きる人々は常人ではない、あるいは魑魅魍魎の仲間であると考えられていたわけです。しかしそうした神秘化は、ある意味では差別なのです。これは、ヨーロッパにおけるオリエンタリズムと同じものです。オリエンタリズムも、ヨーロッパは東方を差別ばかりしていたわけではありません。実際に優れた発明品、芸術、思想その他が将来されていたわけですから、一種の憧憬も懐きつつ、それが逆に嫉妬や愛憎、差別へと転化してゆくわけです。ヨーロッパではこのオリエンタリズム的カテゴリーのなかに、野生/文明、森林/耕地、女性/男性、悪魔/神といった二項対立的構図がすべて重なってきます。もちろん、オリエント/ヨーロッパも。例えば、中世ヨーロッパでは、森林が文明と対立的なものと位置づけられ、化け物だの魔女だの悪魔だの野人だのの巣窟とみなされるようになります。一方で、これを伐り拓いて耕地化してゆく修道院は、それだけで神の意志を実現するものとみなされました。このとき、授業で扱ったのと同じ猿人のような毛深い野人のイメージを、ヨーロッパにおいても確認することができます。アジアにおける平地/山地も、これとほぼ同じものですね。ゆえに実は、自分と同等のものとはみないという意味で、崇敬も差別、疎外の一形態なのです。