古墳は戦乱に巻き込まれることなく、今の今まで維持されてきたのでしょうか。 / 古墳が修築されなくなるのはいつ頃からですか。 / 蒲生君平は、なぜ天皇と古墳を一致させることができたのですか。何が規準でしょうか。

古墳時代においては、それを奉じる地域共同体にとって重要性がある場合には、修繕・補完の措置がとられていたと考えられます。しかし意味がなくなると放置され、次第に草木に覆われて山のようになってしまう。それまでは、幾何学的形状のうえに葺石がなされ、埴輪や木製品が立ち並ぶという極めて人工的な景観でした。7〜8世紀、天皇制の成立とともに、これまでヤマト王権が築造してきた大王墓が天皇墓に当てはめられ、天皇の系譜に沿った陵墓の目録のようなものが作成されてゆきます。以降かかる陵墓は、律令政府の諸陵寮など陵墓関連官司によって管理・維持されてゆくのです(10世紀編纂の『延喜式』に、陵墓の目録が記載されています。蒲生君平が『山陵志』を書いた頃には、どの陵墓がどの天皇の墓に当たるかは、すでに古代国家による記録〈正しいかどうかは別として〉が残っていたわけです)。ただしその段階では、陵墓はほとんど小高い丘に草木が繁茂するような状態となっており、これを伐ってもとの状態を復原するのではなく、そのままの状態で保全されました。しかし一方で、そうした比定に与らず消滅していってしまう古墳も数多存在しました。前方後円墳でも、例えば都城の建設によって削平されてしまうものも存在したのです。