国家のシンボルとして前方後円墳を築造したとのことですが、ヤマト王権は全国を武力で平定し前方後円墳を造らせたのですか? また、蝦夷征討はまだ先のはずなのに、東北に前方後円墳があるのはなぜですか?
古墳などから出土する武器・武具の多量さをみていると、ヤマト王権が軍事政権としての性格を持っていたことは間違いありません。しかし、弥生時代のような大規模な戦乱の痕跡は、考古資料からも文献資料からも見当たりません。恐らくは弥生時代からの政治的グループの交渉の積み重ねの結果として、まあ多少の小競り合いはあったでしょうが、比較的平和裏に統一が進んでいったものと思われます。最北端の前方後円墳は岩手県の胆沢にある、古墳後期の角塚古墳ですが、ヤマト王権の権威がここまで及んでいたことは確かです。しかしそれも、7〜8世紀の古代国家のように武力で領域支配を獲得するのではなく、緩やかな従属関係に基づき在地首長の統治を保証していたがために、奥州の豪族を従えることも可能だったのでしょう。