ヤマト王権の王位継承が、実力主義であることに驚いた。後の聖徳太子による改革が、血縁主義から実力主義への転換であると習ったのだが、では、血縁をよしとする思想はいつ、どのようにして起こったのだろうか。
王権の安定的な継承を考えたとき、実力重視のあり方では、常に内乱の危機を抱え込むことになります。事実、古墳時代から飛鳥時代へ接続する継体朝においては、前代までの王統が断絶し、列島各地で反乱も生じて、まるで邪馬台国における卑弥呼の死の直後のような情況が現出したと考えられます。それに対し、中華王朝などで実現されていた血縁主義の継承方法では、父親から子供、兄から弟へ受け継がれる限り、前代の遺産はそのまま後継者へ接続してゆくことになる。もちろん、継承時の紛争への怖れは完全に払拭はできませんが、それでも、大王位がまったく別のグループへ移動してしまうよりは、混乱も小さくて済むはずです。そのような考え方のもと、次第に血縁主義が重視されるようになり、より安定的なものを求めて、最終的に父系直系継承が選択されてゆくのだと考えられます。