完成された「道成寺縁起」では、安珍も清姫も畜生道に落ち、僧の『法華経』的作善で成仏するという展開だったと思いますが、この「『法華経』はとてもありがたいものだ」という落ちにいまひとつ納得ができません。どちらかというと、安珍が清姫を騙したという因果応報の戒めだと思っています。何でもかんでも仏教に繋げてしまうことは、当時の風潮で当たり前のことだったのでしょうか。

もともと『法華経』の霊験譚として作られたものなので、『法華経』の素晴らしさを喧伝して終わるのは、形式として当然なのです。『法華経』提婆品は、変成男子による女性救済を説く経典として著名であり、それゆえに女性の罪業の強調、その救済という文脈になります。「安珍清姫を騙した」というのは現代的視点で、当時の一般的理解ならば、「女性によって男性が罪業をなさざるをえなくなった」と捉えます。そうした女性の浅ましさを転換できるのが『法華経』であるとして、女性の信仰を集めてゆくのです。