菩薩と十二神将が同一と捉えられることに、違和感はなかったのでしょうか。

本地垂迹などの考え方が進むと、結局あらゆるものが結びつけられ、融合させられ、同一視されてしまう世界になります。本覚論的な世界です。違和を説明するどのような筋道が立っているかが重要になるので、それが説得的であれば問題とはみなされなくなってゆきます。そもそも、如来自体が普遍々満の存在なので、菩薩や明王などはすべてその力の具体的な発現とする見方もあります。そうなると、菩薩も神将もみな本来は一体のものと考えられてしまうのです。