天子という言葉を広辞苑で調べると、2番目の意味で「天皇」が出てきます。煬帝に当てた倭の国書に「日出づるところの天子」が倭の大王を指すのだとすれば、当時は大王を「天子」と呼ぶ風習があったのでしょうか。それとも、中国の天子の呼び名に合わせて、天子という言葉を使ったのですか。 / 南北方向が中国の君臣関係の基軸を為すことは分かるのですが、なぜ東西方向がプリミティヴなのでしょうか。

「天子」は、中国的な天の概念が前提となっていますので、一般に当時の日本列島で、大王を「天子」と呼ぶことはなかったと思います。あくまで、外交的なものです。しかし、ワカタケル大王の時期に作られた刀剣や鏡の類には、すでにみたように「治天下」との概念が生じています。のちに「アメノシタシロシメス」すなわち天下を支配すると訓読しますが、中国的天の受容が進み、王権の政治思想として内面化が進んでいたということです。倭の五王のときには決して外交上口にしなかったその自意識が、推古朝の遣隋使に至って、「日出づるところの天子」という言葉に表現されてしまったのかもしれません。なお、文化とは、自然に密着する段階から解放され、人間独自の秩序を打ち立ててゆく点に「進化」が意識されます。中国文化においては、太陽を王と一体化させていたのは殷王朝の段階で、これを克服した周王朝に至り、「天」が意識されてゆきます。南北軸はこの天の概念と結びつくものであり、その価値観からすると太陽に左右される東西軸は、すでに克服された古い文化との印象になるのです。