神を王権に服属させるという考えのもとで、仏教が伝来し広まっていったことに衝撃を受けた。ここでいう神と仏教の信仰の対象は、まったく別物として認識されていたのでしょうか。 / 神殺しの考え方が広まることで、神仏と関わりが深い仏教の普及には、障害とならなかったのだろうか。 / 神殺しについて、仏教伝来の後に宗教間のすれ違いからそうしたことが起きたのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

仏教は当時、「蕃神」つまり外国の神と認識されていたようです。日本列島では、在来の神祇を神像として表現する風習は一般的ではありませんでした。しかし、縄文以降神霊的なものを造形する志向が皆無であったわけではなく、古墳時代に神仙を造形した三角縁神獣鏡も伝来していましたので、神聖なものとして理解をすることはできたと思います。日本列島では、外来の神も多く神祇と同じように奉祀されており、仏教の信仰を認めるか否かをめぐって、『書紀』に描かれるような大きな衝突が起きたとは考えられません。以前にも書きましたが、神と仏の交渉は、当初仏教によって祖霊を祀るというあり方、後に神霊を仏教によって活性化させるというあり方で進んでいったようです。8世紀になると、仏教の在地への浸透を通じて、仏教による神殺しも行われてゆきます。しかし神祇信仰の世界でも、例えばスサノヲのヤマタノヲロチ退治のように、新しい神、あるいは王権の神が、古い神、あるいは土俗の神を滅ぼすという構図で、神殺しが繰り返されてきた経緯はあります。仏教による神殺しは、僧侶が開発の担い手になり、森林を伐り拓いて耕地を作り、河川を治水して橋や灌漑用水を作る過程で発生しますが、多くはこれまでの神殺しと同じパターンを踏んでいたために、あまり大きな混乱には至らなかったようです。