乙巳の変で、蘇我入鹿は王位を奪おうとしたため殺されたと『書紀』には書かれていますが、本当に狙っていたのでしょうか。それとも、中大兄が入鹿への不満を爆発させ、方便を用いたのでしょうか。

これについてはよく分かりません。7世紀の半ばにおいては、未だ実力主義の大王擁立の慣習が残っていたとも考えられ、いわゆる継体王統以外からも、大王になりうる存在が輩出されたとしてもおかしくないのです。推古朝の倭国に対し、『隋書』は大王を後宮を持つ存在すなわち男王と記述しています。かつてはこれを厩戸のことだと考えていましたが、馬子のことを指していたとも考えられなくはない。いま我々が考えているより、大王位の継承は不安定であったと思われますので、王位を簒奪しようとしていた可能性も捨てきれないと思います。