蝦夷の時代に反蘇我本宗家の勢力が結集した際に、蘇我本宗家側に留まった勢力はどの程度あったのでしょうか。

未だ朝廷の大勢は占めていた、と考えられます。そうでなければ、大臣の役職を維持することもできなかったでしょう。舒明天皇は、即位した当初は蘇我の本拠である飛鳥の中心部に宮を構えますが(岡本宮)、晩年にはその領域から出て、かつて継体を奉戴した息長氏の勢力範囲である百済朝鮮半島のそれではない)へ移り、そこに百済大宮と、大王による初めての伽藍寺院百済大寺を、蘇我氏飛鳥寺を上回る規模で造営しています。舒明の治世を通じて、次第に蘇我から政治の主導権を奪う準備が進められていたのだと考えられます。