「八百比丘尼の告白」で、龍王が瞋恚のままに村を滅ぼしたといっているのは問題な気がします。神の立場にあるものが、契約違反で罰するならまだしも、怒りの感情に任せて…というのはどうなのでしょう。また、供養をし続ける娘の死で龍王の罪が浄化されるというのも、他力本願であるように思います。 / 八百比丘尼にあった龍王と仏教との関わりについて、日本では古来から神々や神道と仏教との関係が密接であったということでしょうか。

以前に神身離脱の話をしたとき、聞いてくれていたでしょうか。アジアにおける神はキリスト教的な神とは異なり、より人間的な存在です。龍王などは『妙法蓮華経』にも描かれ、東アジアでは半ば仏教的な存在になっていて、人間より優れた力を持っているものの、その感情のあり方は人間と変わらず、それゆえに苦しみ悩む存在として造型されています。神が怒って災禍をなすという物語は、日本を含む東アジアにおいては、極めて一般的なものです。また、八百比丘尼の何百年に及ぶ鎮魂の作業が龍王の罪を消尽させるということは、その間龍王自身もずっと罪を背負いその重さに呵まれ続けることを意味します。『唐高僧伝』などでは、罪業を負った神の苦しみについて記述したものが幾つかみられますが、細蟲が宿り身体を喰い回るといった表現が出てきます。神が仏教的作善を僧侶らに乞うのも、神身離脱などの物語り形式の一要素です。