なぜ吉野は、時代時代で、皇子や天皇などの出家・隠棲の地となったのでしょうか。

講義でも少しお話ししましたが、吉野は古代より、王権にとって天皇の宗教的エネルギーを養生する空間であると位置づけられたようです。弥生時代以降、水田に囲い込まれた山地地域への神聖視が強まり、古墳時代に中国の神仙思想がもたらされると、一部地域には「神仙境」としてのイメージが付与されてゆく。吉野はその典型で、自身陰陽五行説を熟知していた天武によって、その位置づけが進んだようです。天武・持統はこの地で諸皇子を集め、草壁を皇太子として団結してゆく誓約を交わさせていますし、持統は後に何度も吉野へ行幸し、柿本人麻呂はその様子を「山川もよりて仕ふる神ながら」と歌っています。のち、南北朝期にこの地が南朝の拠点となるのは、壬申の乱における天武の故事があること、山深い地域で防衛に適しているのと、京都を仮想敵とみた場合に東国へ抜ける道が確保されていること、修験をはじめ列島の山と山を繋ぐネットワークの中心に位置することが重要だったのでしょう。