庚午年籍は国内の全人民が対象とされたとのことですが、どのように全人民を把握したのでしょう。また、良賤の区別など何を規準としたのでしょうか。 / 庚午年籍には、蝦夷なども対象となったのでしょうか。 / 庚午年籍の作成にはどれほどの時間がかかったのでしょう。また、当時の人口はどれほどだったのでしょうか。

全人民というより、公民が対象です。すなわち、蝦夷や隼人などは除かれます。これは中華王朝でもそうですが、基本的に夷狄とされた人々は課税の対象にはならず、ゆえに戸籍にも記録されませんでした。庚午年籍については、その作成期間、作成過程など、詳しいことはよく分かっていません。壬申の乱の際には、この戸籍に基づいて徴兵が行われたようですので、少なくとも672年までには作成が終了していたようです。『日本書紀』に「戸籍を造り、逃亡と浮浪を断ず」と出てくるのは670年なので、作成期間は1〜2年ということになりますが、それ以前から準備が行われていたのは確実でしょう。奈良時代以降にこれが根本台帳とされ、例えば自分たちは現在賤民として扱われているが、もともとは良民だったものが誤って戸籍に登録されてしまったのだという「良賤訴訟」などの際に、証拠としても持ち出されていますので、実体を伴っていたことは間違いありません。『日本書紀』には充分な記録がありませんが、これを実現するためには、戸籍という形態はとらずとも、例えばヤマト王権の直轄地で他地域以上に個別人身支配を進めており、それが制度の雛型になったのではないか、各地の国造の国において、人制や伴造制などを基本に、奉仕関係のなかで個別の人を把握する仕組みがある程度整っており、それを基盤にシステムを構築していったのではないか等々、さまざまなことが想定されています。しかし授業でもお話ししたように、大きな社会的混乱を伴ったことも確かで、その実現範囲はいったいどの程度だったのかは、まだまだ議論をしてゆく必要がありそうです。