当時、百済や新羅、高句麗では、文化や内政は大きく異なっていたのでしょうか。もし友好的関係を持っていたのが百済でなかったら、日本は違った国になっていたのでしょうか。

確かに、細かな部分では社会慣習、文化のあり方の相違は存在したはずですが、それは日本列島における東側、西側の相違と同程度であったと思われます。古代の日本へ影響を与えたのは百済の文化だけではなく、高句麗新羅からも多くの渡来人があって、さまざまな文化を伝えています。仏教では、百済滅亡以降は新羅仏教の影響が大きく、新羅僧の著した経典の注釈書・論著などが、奈良仏教の基本のひとつをなしています。古代最大の渡来系氏族である秦氏も、実は新羅系でした。関東には高句麗系の人々が多く入植させられており、高麗郡などの地名も存在しています。氏族制に根ざした奉仕システムである人制については、新羅金石文から、その原型となる「守墓人」などの集団がみつかっています。