「評」や「五十戸」の表記が「郡」や「里」に改められたのは、何の意図があってのことでしょうか。

「評」については、高句麗新羅で、同様の行政区画が存在したことが分かっています。コホリは古代朝鮮語で大きな村落を指す、との説もあります。以前に紹介した氏族制に基づく奉仕の仕組み「人制」も、朝鮮半島に起源を持つことが判明しており、6世紀における朝鮮三国と倭との極めて密接な政治的関係のなかで生まれてきた仕組み、概念と思われます。「五十戸」をサトと読むこともヤマト言葉の訓読に近く、50戸という行政的まとまりを、民衆レベルの言葉で表現したと考えていいかもしれません。それに対して「郡」などは、中国王朝で律令制などとともに用いられてきた行政区画、表記です。日本の郡とは規模が異なりますが、大宝律令においては前代の朝鮮半島的文化を払拭して中国化を前面に押し出すため、あえてこのような言葉を使ったのかもしれません。