6世紀後半は、蝦夷制圧戦争や白村江の戦いなど、度々戦乱を経験しているが、財政的には問題はなかったのだろうか。

非常に大きな損害があったと思います。とくに白村江の戦いのそれは大きかったでしょう。プリントには、倭軍が西日本各地で兵力を徴集しながら九州へ移動し、海を渡ったことが分かる表を付けておきましたが、造船も瀬戸内周辺で行っているはずなので、西日本各地の政治的・社会的・経済的な能力は大きく減退していたはずです。それが天智政権への批判としてくすぶり、最終的に庚午年籍に対する反発と併せ、壬申の乱における近江朝廷軍への反抗に繋がったことは充分ありえます(同乱では、あまり白村江の影響を受けなかった東国の兵が精強さを保ち得得て、天武の勝利に多きく貢献することになったのだ、ともいえます)。天智が部曲の一部公認に踏み切ったのも、疲弊した豪族層への救援策であった可能性もあるでしょう。