動植物抜きで食べていくことはほぼ不可能なはずだが、なぜ仏教は食べてしまうことの正当化ではなく、罪業化を進展させたのだろうか。

非常に本質的な質問ですね。しかしその部分に、仏教の生命観、世界観、未来観が表れているのだと思います。殺生は、生命がその存在を維持するために必ずしなければいけないことだが、同時それは、他の生命という存在を奪うことになってしまう。この矛盾を正当化するためには、生命自体にランク付けをし、食べられてもいい、失われてもいい生命を、相対的にでも設定するしかない。しかしそもそも仏教が、バラモン教が持っていたその「ランク」に抵抗し、否定すべく起こったものであって、生命の差別やランク付けをするわけにはゆかない。ならば、建前的にでもあらゆる生命の不殺生を目的に掲げ、それに向かって邁進するしかないという考え方になるでしょう。