捨身行は行き過ぎであり、やはり自殺であるように思われる。仏教は自分が犠牲になるのをよいこととしているそうだが、それによって悲しむ人がいることを考えない点に欠点があると思う。 / 自分の生命を奪うということについて、仏教はどう考えるのだろう。

授業でも少し説明しましたが、捨身行とは捨身施です。布施である限り、誰かのためにということのほかに、自分の執着を断ち切るという意味があります。何への執着なのか。すなわち、自分の身体、自分の生命への執着です。仏教では、人間は何かに執着することによって、苦しみや悩みが発生すると考えます。心が自在でなくなり、他の者や人に支配されてしまう。さまざまな生命が存在するこの世界においては、ものごとは基本的に自分の思うとおりにはならない。そうした現実の前で人や物に執着していると、その人が自分の前から去って行ったとき、そのものが自分の前から失われたときに、激しい喪失感、取り戻したいという欲求が発生する。しかしそれが果たされることは、なかなかない。失意のなかで、人は苦しみもがき、それから逃れるために、大切な人を憎悪するということもある。最近のストーカー殺人などは、そうしたケースといえそうです。そうして、その種の執着のもっとも基本的なもの、そうして恐らくはもっとも強いものが、自分の身体や生命そのものに対する執着です。生命であれば、ある意味でそれを維持し、持続させようとするのは当たり前とすらいえる。しかしだからこそ、それを何かのために、誰かのために捨てられるか、執着を離れることができるかと問うてくるのが仏教なのです。