藤原京の造営は途中で投げ出されたと聞いたことがあったのですが、実際はどうだったのでしょうか。

あれだけの規模のものですので、やはり縁辺部については、充分に開発されていなかったと思われます。条坊制が敷かれ、石敷道路が通っていたとしても、縁辺部については外部との連続性も高かったと思われます。外部にはそのまま農耕地が広がっており、日本の宮都は中国の都城と異なり羅城=城壁がありませんでしたので、その分各区画の開発は中途半端に終わってしまったところも多かったと考えられます。