以前「涅槃図」を説明していただくなかで、描かれている動物たちにも力や徳があるといった説明をされていましたが、業によってそれにみあう動物に転生するのであれば、すべてもとは人だったということでしょうか。

前にもお話ししましたが、仏教は基本的な世界観として、現生の生命のあり方は仮の存在であって、必ずしも人間を中心とはみなしていません。ある動物が人間の転生したものだったとしても、その前は別の存在だったかもしれない。おおもとは○○だったという定義は意味がなく、すべて生々流転を繰り返す存在なのです。動物が愚かで残酷なあり方に貶められているとしても、それは生命の現時点での情況に過ぎず、将来的にはそこからの離脱もありうる。しかし、その枠組み自体が人間の優位を示すものなので、客観的にみて人間至上主義から離脱できていないと考えられるのです。