律令国家が誕生し、中国などの隣国に宣言する際に、なぜ「小帝国」で踏みとどまったのか。また、唐の長安城を模倣して宮都を造営したことは、冊封/被冊封には当たらないのか?

まず誤解のないよう正確にいうと、「小帝国」は、当時の律令国家が使用した言葉ではなく、研究者がそのあり方を規定して述べたものです。当時の日本には、目の前に唐と新羅という大国があり、現実に数十年前には、この二国によって存亡の危機に瀕している。しかも中国と朝鮮半島には、日本はずっと知識・技術の提供を受けてきたわけであり、いわば古代における日本の近代化は、これらの国々の影響下になしとげられたといってもいいわけです。なかなか、それらを凌駕し帝国化しようという意識は持ちえないでしょう。ちなみに、冊封とは中華王朝を宗主として崇拝し、その傘下に属して国王として公認されることを意味しており、種々の文化を学ぶこととはイコールではありません。