平城京について、外京や北辺坊については、平城京を造営する前から計画されていたものなのでしょうか?

恐らくは、後に付加されていったものであると考えられます。現在興福寺元興寺の位置する外京地域は、春日山へ連なる丘陵地帯でした。平城京域は右京が低湿で、左京へゆくほど高燥になってゆきます。ゆえに、上級貴族の邸宅も左京以東に集中する結果となりました。春日地域は、平城京造営以前から仏教の山林寺院などが存在しましたが、恐らくはその点に基づきつつ、造営計画上仏教の重点地域として位置づけられたものでしょう。それゆえに〈日本最初の伽藍寺院〉の後継である元興寺、時代を担う藤原氏の氏寺である興福寺(旧山階寺)が並置され、やがて東大寺が造営されてゆくものと思われます。藤原京においても、東側は香具山、三輪山を祀る大神神社石上神宮などの宗教的スポットがあった関係から、やはり藤原氏氏神春日社なども整備されたものでしょう。それらと平城京域を都として連結するために設置されたのが、外京だったと考えられます。