行基の行いのどのような点が、律令の規定に違反しているとみなされたのですか? / 聖武がともに東大寺を造るほど行基を尊敬していたのに、長屋王はそれを弾圧して反感を買わなかったのでしょうか?

当時の行基集団は、平城京近辺の交通路に布施屋を設け、行路に難渋した者や浮浪逃亡者、逃亡役民の類を救済する活動を行っていました。それらは仏教の説法を行う道場に付設され、私度僧を含む男女が協力して運営していたと考えられます。またその活動資金は、行基の背景にある渡来系氏族のネットワークのほか、平城京における大規模な托鉢行に負うところも大きかったと考えられます。しかし、律令の規定にある仏教・僧尼関連の法令「僧尼令」では、私度の禁止はもちろん、托鉢の規模や内容・時間にも厳しい制限があり、所属寺院以外での布教の禁止、僧尼の共住禁止などが規定されており、行基の活動は大きな問題となったのです。また、彼の活動に身を投じる女性たちも多かったことから、国家が儒教的な家族の崩壊を怖れたとする見解もあります。