天然痘によって支配者層の人々が大勢死亡してゆくなか、どのような対策が採られたのでしょうか。

天平9年の天然痘流行については、一般向けに出された太政官符による指示と、官人向けに出された典薬寮の答申に基づく指示の、2つの対策が残っています。当然のごとく、後者の方が専門的な、医薬なども多く用いた処方になっており、後者はそうした処置が受けられない人々に対して出された、民間医療的ニュアンスさえあるものです。しかし、これは後世においても天然痘の処方として度々引用されており、相応の効果があったものと考えられます。内容的には、高熱によって引き起こされる下痢への対処が中心になっています。以下に、現代語訳を掲げておきましょう。『類聚符宣抄』巻3 疾疫事/皰瘡事 所引 天平9年(737)6月26日官符〔新訂増補国史大系故実叢書『拾芥抄』にて対校〕、「太政官符す、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海等の道の諸国司。一、総じてこの疫病は、名を「赤班瘡」という。症状が現れる始まりには、すでに瘧疾(マラリアのような熱病)に似ている。まだ膿疱が現れる以前は、床に臥して苦しむことが、あるいは三、四日、あるいはは五、六日続く。膿疱が出ると、また三、四日を経て、肢体も内臓も焼けるように熱を持つ。この時になると、冷水を飲みたくなる。〈しかししっかりと我慢して、飲んではいけない。〉熱病がまた快方へ向かい、熱気もだんだんと治まってくると、(今度は)下痢の症状がさらに生じてくる。速やかに治療しなければ、最終的には赤痢になってしまう。〈下痢の症状がある期間の前か、あるいは後か、時期が決まっているわけではない。〉この疫病と併発する症状には、また四種がある。ひとつは咳や嚔(シハブキ)、ひとつは嘔吐(たまひ)、ひとつは吐血、ひとつは鼻血である。これらのうち、下痢が最も急激に現れる。このことをよく自覚して、治療に専念しなければならない。一、かいなに綿を通し、腹・腰をしっかりと縛り、必ず温かくして、決して冷やしてはならない。一、寝具は薄くするが、地面に直接寝かせてはならない。ただ床の上に蓆を敷いて横たえ、休ませるようにせよ。一、粥やおもゆ、餅や粟などを煮た汁は、温かなものも冷めたものも、好みに応じて食べてよい。ただし、鮮魚や生肉、生の果実や野菜は食べてはならない。また、水を飲むこと、氷を食べることは、固く慎んでしてはならない。下痢の症状が出たときは、よく韮や葱を煮て多く食べるとよい。もし血便や粘液便が酷くなったときは、もち米の粉八、九を混ぜて煮させ、温かな状態で二、三度飲ませるようにせよ。また、もち米の乾したもの、うるち米の乾したものを湯で溶き、粥にして食べさせよ。それでも下痢が止まらないなら、さらに五、六度食べさせて、しっかり管理を怠らないようにせよ。その乾し米については、丁寧に突き砕き、そのままの形にならないようにせよ。一、おおむねこの病は、食事に悪い影響が出る(胃腸に悪い)ので、必ずあえてしっかり食事を摂るようにせよ。発症したら灸火の治療も始め、海藻に塩を付けてときどき口のなかに含ませよ。もし口や舌が爛れても、病にその効果があるのだと自覚して続けること(汗や下痢で出てしまうので、塩分、ミネラルを摂らせる)。一、症状が緩和してから20日を経ても、安易に生魚や生肉、生の果実・野菜を食してはならない。水を飲むこと、身体を湯や水で洗浴すること、無理に性交渉を行うこと、歩いて風雨に当たることはしてはならない。もしこの戒めを破ってしまったら、必ず霍乱(急性胃腸炎)を発症する。そうすると更にまた下痢が続く、いわゆる「労廃」である。〈さらに発症する病を、名づけて「労廃」という。〉こうなってしまうと、いよいよ扁鵲のような名医に診てもらう以外に、症状を止めることなどできない。20日ほど経って後、もし魚や肉を食べたいと思ったら、まずよく火を通して、そうして後に食べるべきである。ただし、干し鰒や堅魚(鰹節)などの類は、煮たものでもそうでないものでも、どちらも食べてよい。〈干し肉も同様に食べてよい。〉ただし、サバやアジなどの魚は、乾燥させた品があるとしても、我慢して食べてはいけない。鮎はまた、煮たものでも食べてはいけない。蘇油(牛乳から作った油)や蜂蜜、□などは禁止する限りではない。一、すべて疫病を治そうと思うならば、丸薬や散薬などを用いてはならない。もし胸に熱があれば、わずかに人参湯を服用する程度にせよ。以上のことは、四月以来、京及び畿内の人々が尽く疫病に罹患し、多く死亡することがあった。畿内諸国の人民も、またこの疫病の害に遭うだろうことは明らかである。そこで先のとおり条々を記した。国はこれを、伝送せよ。届いたならば写し取り、すぐに郡司の主帳以上一人を選んで、死者に立てて速やかに次の場所へ送り届け、停滞することのないようにせよ。国司は部内を巡行し、人民に告示せよ。もし粥を作る材料がなければ、国は量を測って支給し、その細目を報告書にして進上せよ。今、太政官の印をこの文書に捺す。官符が到達したならば、命令のとおりに実行せよ。  正四位下行大弁紀朝臣〈男人〉   従六位下守右大史勲十一等壬生使主  天平九年六月廿六日」。