『霊異記』の橘奈良麻呂の話ですが、神霊に関わる行為だというだけで串刺しにしているのでしょうか。わざわざ神として送るために行ったとは考えにくいのですが。

説話を読む場合には、それがいかなるモチーフを題材として、どのような物語りを語ろうとしているのか、説話の主体はいかなる個人/集団で、ストーリーには原型があるのかないのかなど、その複雑な重層構造を多角的に分析してゆく必要があります。その内容のありのままをそのものの史実として捉えてはいけないわけです。上記の『霊異記』は仏教説話集であり、編者の景戒は、仏典に引用された物語や在地の伝承を巧みに組み換えながら、列島に仏教の因果応報が顕現していることを証明しようとしています。授業でお話ししたように、神送りの方法である串刺しを残酷行為として貶めることは、ある程度自覚的になされたと思われます。ちょうど、現在諏訪社蛙狩神事が残酷行為として批判されているようなもので、串刺しを殺生として否定したいわけです。よってこの説話では、串刺しを身を滅ぼす悪報を呼ぶ行為としてのみ描いているわけです。ただし、景戒の説話の原型には在来の伝承が存在した可能性がある。そう仮定してあらためて読みなおしてみると、毘売埼の伝承のように人間の個体/狐の個体の等価交換が読み込まれている。もとは、人間の側の何らかの行為に応じて、狐が肉を差し出す契約があり、それが履行された際に神霊を送る、その種の〈動物の主〉神話が存在したのかもしれません。『霊異記』には、狐直を名乗る氏族の始祖伝承として、のちに安倍晴明伝承にも使用される葛葉伝説、すなわち狐と人との異類婚姻譚が収録されています。そうした狐トーテムともいうべきものを持った氏族に、ずっと受け継がれてきていた物語の変形なのかもしれません。