徳政論争で征夷は中止されたが、中途半端な状態で中止して問題はなかったのか。

プリントにも書きましたが、光仁朝から始まった蝦夷の反乱は、延暦20年(801)における征夷大将軍坂上田村麻呂の鎮圧作戦によって、蝦夷の首魁であった阿弖流為・母礼らが降伏し捕縛され、翌21年に胆沢城の造営と鎮守府の移設、翌々22年には志波城の造営へと進み、ある程度の鎮静化と征討の成果を得ていました。桓武にとって妥協できるまでには事業が進んでおり、そうした意味でも上記「徳政論争」はセレモニーであったといえるのです。