菅原道真の遣唐使廃止は、客観的にみて正しいものだったのですか? / 遣唐使の派遣は止めていたのに、交易が続いていたのはなぜですか?

一般的には、寛平6年(894)、菅原道真の建議により遣唐使が廃止されたと理解されていますが、この件については断片的な史料が残るのみで、実はことの実相はよく判明していません。『菅家文草』巻9 奏状に収める、道真自身の寛平6年9月14日の上申には、「反乱による混乱で唐自身が他国からの入国を禁止しており、大陸に辿り着いても安全に都へ行けるか分からないので派遣の再検討を」と述べているだけに過ぎず、遣唐使そのものの廃止など一切触れられていません。9世紀後半から唐国内では反乱が相次ぎ、やがて滅亡に至り五代十国の林立する情況となってゆきます。周辺諸国への統一力は緩んで社会不安を生み、新羅海賊などの被害も増大していました。よって道真は、海上交通はもちろん、唐土へ入ってからも危険が及ぶという認識を持ったわけです。近年注目されているのですが、道真はこの後も数年にわたって遣唐使の肩書を使用し続けており、「道真の建議による廃止」は事実ではないようです。そのことについて正式に審議された痕跡もなく、どうやら、唐の混乱のなかで派遣が立ち消えになったというのが真相で、「廃止」はもちろん「中止」「停止」ともいえない情況だったものと考えられます。とすれば、実質的な利益に繋がる交易が継続されたのは当然で、次第に王権が優先的に唐物を確保する制度も整えられ、アジアに産する香料、貴重な樹木、染料、陶土、薬品、顔料、皮革、調度・装飾、骨角器、衣類、衣料、楽器の材料のほか、書籍、鸚鵡・孔雀・鴿・白鵞、羊・水牛・唐犬・唐猫・唐馬などの珍獣、唐紙・唐硯・唐墨などの文房具が多く輸入されました。