摂政や関白、太政大臣の地域の違い、権力関係について教えて下さい。 / 右大臣や左大臣が、太政大臣を介さずに摂政や関白になってゆく事例がありますが、それはなぜ可能だったのでしょうか?

充分説明する時間がなく、失礼しました。画期は、一条朝の藤原兼家です。当初未だ右大臣に過ぎなかった兼家の上席には、太政大臣頼忠、左大臣源雅信がおり、天皇外戚であっても太政大臣にはなれませんでした。そこで右大臣を辞職して准三宮の詔を受け、皇太后・皇后・皇太子に準じる地位を得て、自らを太政大臣の上へ位置づけることに成功したのです。方法としては、藤原仲麻呂道鏡が採った、太政官制の外に権力基盤を構築するやり方と変わりません。そのうえで兼家は摂関を歴任したわけですが、結果として本来太政大臣職掌であった摂政・関白を、それから分離し再校独自の官職とする動きを促進しました。これは〈寛和の例〉と呼ばれ、以降摂関は太政大臣とは別に常置されることになるのです。