朝廷のような中央権力と、地方の武士たちがネットワークを築くようなことは、どのようにして始まったのでしょうか。

朝廷の中心にいた貴族たちは、一方で国政を運営するために荘園整理を実施しつつ、一方では自らが巨大な荘園領主でもありました。彼らは地方の荘園の経営と、その収穫を中央へ輸送させるため、在地の有力者層を自らの配下に取り込んでいたわけですが、そのなかに後の武士勢力となる人々が含まれていたのです。また、国司として地方に赴いた貴族が任期満了後もその地に勢力を扶植し、周辺の武士層を取り込んでゆく事例もありました。そのなかには、源氏や平氏のような武門、軍事貴族もあって、地域の武士層から旗頭としても仰がれてゆくのです。例えば、平治の乱で敗死する藤原信頼などは、近年大きく見直しが進んでいます。彼は東国に巨大な荘園を築いており、奥州藤原氏さえも掌握していた。一時期中央を離れ東国で勢力を拡大する源義朝などは、その領土内で、信頼の庇護のもとに活動していたと考えられているのです。そうみなしてみると、平治の乱もこれまでとままったく異なる像を結んでゆきます。