生徒に、「日本古代史を学ぶ意義とは何か?私たちが生きてゆくうえで何の役に立つか?」と聞かれた場合、北條先生ならどう回答しますか?

歴史という物語り=ナラティヴは、詰まるところ、ツール以上でも以下でもありません。世界を把握し、現在と向き合うためのツールです。自分が正対しているさまざまな問題、課題が、どのように生起し、どのような情況にあるのか。将来、それはどうなってゆく可能性があるのか。それを判断し、自らの生に役立ててゆくための、さまざまなデータ、考え方が詰まっている物語りの集積です。しかし注意しなければならないのは、そのいずれもが仮説であるということ。あらたな発見、研究、再考、語り直しによって、その仮説は将来へ向けて更新されてゆく。また、地域や時代によって、多様な仮説の立て方、あり方が存在することも、忘れてはいけません。ゆえに、そうした仮説にアイデンティファイしてしまうのは誤りです。異なる仮説=物語りを持つものどうしが、無用な諍いを抱え込む結果になります。あるひとつの出来事について、異なる仮説が出現した場合には、冷静に意見交換しながら、それぞれが自分の仮説を検証できるようにすること。そうした心の準備を、常にしておく必要があります。以上のことは、古代から近現代に至るまで、それが歴史である限りは変わらない問題です。もし古代に特有の正当性を求めるならば、それは現在との大きな違いから、他者に対する想像力、多様性の理解・認識を高めるということでしょうか。そのことで、自らの立つその場所をもう一度見直し、相対化し、確認することができます。