文化のなかでは、どうしてこうも男性/女性を分けたがるのだろう。両性具有的なものが認められなかったのは、なぜなのだろうか。

男性/女性だけではなく、レヴィ=ストロースが看破したように、人間の文化は二項対立を基礎に構造化されているのです。AとBが存在したとき、我々はそれがAであること、Bであることを認識するためには、AとBの違いから判断せざるをえません。同質性においては、2つを区別できないからです。よって、その根本から形成される我々の認識世界というのは、無数の二項対立によって編み上げられたテクストとして存在するわけです。このような世界観のもとでは、「どっちつかずの曖昧なもの」、いわゆる境界領域は、危険なものとしてタブー視されました。両性具有的存在は、それゆえに恐れられたのです。仏教が、例えば講義で扱ったように主体/環境の分節を克服しようとするのは、こうした二項対立でがんじがらめになった認識世界を、現代哲学と同様に把握していたからです(ちなみに仏教は「捨てる」宗教ですので、両性の「具有」はせず、性自体の超越を目指します)。