あなたは現代で、国家にとって不都合な事実を教えることができなくなると思っているようだが、大学の講義で好きなだけそれらに触れることができ、ネットで閲覧することができ、図書館で見ることができる。日本では杞憂に思える。 / 久米邦武筆禍事件のようなことは、現在でも起きているのでしょうか。また、当時は、表現の自由を保障するものはなかったのでしょうか。

まず、この世界は大学へ行くことのできるひと、ネットで自由に情報を検索できる人、図書館に自由に出入りして書物を閲覧できる人だけによって構成されているわけではありません。そうした環境にない人は大勢いますし、そうした環境にあっても利用しない人もまた大勢いるのです。よって多くの人々が、種々のメディアを通じて入ってくる情報に左右されやすい。そうして、その情報の成否判断の基準となってくるのが、幼少期の教育によって形成された知的基盤なのです。もちろん、杞憂であればそれに越したことはないのですが、実際に東日本大震災以降のこの6年間においても、一般の歴史的「常識」は大きく変わり、保守的な傾向が強くなりました。久米邦武筆禍事件と類するような事象も、例えば慰安婦問題をめぐるバッシングに関連して、各地の大学で起きています。また、昨年の安保法案審議前後から、日本各地で「平和」と名のつくイベントや博物館展示などが、「政治的に偏向する」という理由で中止に追い込まれています。もはや、戦前・戦中に類似の事態が各地で起きているわけですが、そのことはほとんど報道されず、一般の知るところとなっていないだけです。もう少し自覚的に、注意深く、自分を取り巻く社会をみてみてください。