「終戦」の語について、第二次世界大戦の惨禍を繰り返さないために、戦争の終わりを印象付けようと「終戦」としているとは、考えられないでしょうか。
まず、皆さんのリアクションをみていて、「終戦」という言葉の選ばれたこと、そうして現在でも使用されていることが、何か特定の支配集団なり何なりの思惑に沿う洗脳、操作のように感じてしまった印象がありました。確かに、8・15=終戦記念日の設定には、巧妙な政治的判断があるわけですが、現在も「終戦」の言葉が社会に溢れているのは、そのような国家の意図だけでは説明がつきません。これまで、国体の形成と思想弾圧について説明してきたなかでも言及しましたが、日本社会は、国家の抑圧に率先して社会が糾弾をする場合が非常に多い。「終戦」自体も、国家やメディアの情報操作は少なからずあるにしろ、我々が戦争を災害と思いたい、自分たちや先祖を加害者と思いたくないという、意識的あるいは無意識的な欲求が形を持った結果だと思います。なお、佐藤卓己さんの『八月十五日の神話』に詳しく書かれていますが、8/15は、日本がポツダム宣言を受諾した日でも条約に調印した日でもなく、全面的な武装解除が終了した日でもなく(外地では未だ戦闘状態だった)、天皇が玉音放送をして終戦を宣言した日に過ぎません。ゆえに、この戦争に関わった国で、対日戦争の終了を記念する日として、8/15を設定しているところはありません。しかもこの日は、日本では死者を弔う盂蘭盆に当たり、戦争の犠牲者を思い被害者意識を醸成する格好の条件を備えていました。「終戦」とそれに関わる記念日の設定が、いかに胡散臭いものであったかが分かります。