校訂に、現代のような校閲の作業はなかったのでしょうか。

例えば、奈良時代の国家的な写経事業のように、巨大な組織のなかで書写作業が行われる場合、校閲も厳密になされてゆきます。しかし、平安以降は個人的な書写作業が多くなってゆき、なかには専門家が校閲しているのに誤っている場合、校閲も行われない場合がどんどん生じてきます。人の作業であることを考えると、それはそれで仕方のないことなのでしょうが、別の味方をすると、それゆえに写本から書写者の人間味が溢れ出てくる場合もあるのです。以前ぼくのゼミで読んでいた『日本霊異記』の写本などでは、「ああ、ここ書いているとき相当集中力欠いているな」とか、「寝ているな、ほとんど」とか、「ここは気合いが入っているなあ」とか、割合によく分かるのです。歴史の資料としては、正確さとは別次元の大切さ、面白さがあるといえますね。