「日本」という国号が設定され東アジア世界に示されたのは、一般に、大宝2年(702)の遣唐使派遣においてだと考えられています。それ以前は、国内では自国をヤマトと呼んでいたと考えられますが、東アジア世界においてこれに付与された文字が「倭」であったわけです。しかしこの文字は、中華思想的な差別的表記の一種であり、意味としては「矮小」といったマイナスのものでした。それゆえ、律令体制を整え、都城制を敷き、貨幣を鋳造して「文明」たることを標榜したヤマトは、この「倭」国号を払拭し新たな「日本」国号を宣言したのです。その意味で、『日本書紀』が「倭紀」ではなく、「日本紀」であることが重要なのです。