森博達説で、山田史三方が、分かれた二つの時代を書いていると考えられるのはなぜですか。

山田史三方ががというより、その前任者である続守言・薩弘恪の作業が、中途で断絶してしまったことが原因と考えられています。彼らはそれぞれ、ヤマト王権の画期である雄略朝以降の編纂、古代国家において最も重要だった大化の改新に関わる皇極朝以降の編纂を担ったものと推測されます。伝承が錯綜している神話=神代紀や、創作が多い武烈以前、クーデターとの誹りを免れない壬申の乱を含む天武朝の編纂は後回しにされ、比較的史料がしっかりと残っている時代の編纂が、政治的重要性の問題も含め選択的に遂行されたのでしょう。しかし、彼ら2人が相次いで死没したために、神代〜允恭・安康、推古・舒明、天武の編纂がそのまま残されてしまった。これを山田史三方が受けもつことになった、ということでしょう。