『日本書紀』は、なぜ蘇我馬子の業績を削減し、「聖徳太子」の事跡としたのでしょう。その意図がよく分かりませんでした。
授業でもお話ししましたが、『日本書紀』の編纂を始めた天武朝〜奈良王朝は、一応は、乙巳の変により蘇我本宗家から政権を奪取した改新政府(孝徳〜天智朝)の正当性を引き継ぐものでした。それゆえに、乙巳の変を単なるクーデターとして歴史化することはできず、蘇我氏の横暴を廃して大王による中央集権国家を樹立したという、正当性を示さなくてはならなかった。そこで、恐らくは推古朝改革の主導者であった蘇我馬子の業績を可能な限り削減し、大王家出身の人物が中心であったかのようにみせるため、政治に参画し外交や仏教普及に一定の役割を果たしていた厩戸王に、白羽の矢を立てて神聖化したわけです。そうなれば、推古朝は大王家により政治改革を達成したのに、蘇我氏がその功績を独占して専横を極めたため、あるべき姿に回復すべく蘇我本宗家打倒を行ったのだという、乙巳の変の大義名分が立つ。すなわち、「聖徳太子」は、改新政府を正当化すべく生み出されたといえると思います。