蘇我蝦夷が、統制のために、山背大兄ではなく、田村皇子だけを支援したというお話がよく分かりませんでした。両者とも蘇我氏の人物ならば、どちらも支援して、それぞれ地位を上げてもらったほうが、蘇我氏の利益になってのでは? / 山背大兄が摩理勢に自殺を説得した、というのはどういうことでしょうか。

田村皇子には、蘇我氏の血が入っていません。当時、蝦夷は馬子から大臣のポジションを受け継いで間もなく、朝廷を把握しきれずにいました。推古大王の残した遺詔が、次期大王を山背大兄に継がせるのか、田村に継がせるのかはっきりしなかったために、朝廷内部に政治的な軋轢が生まれ始めていました。そこで蘇我氏系の山背を推すことに不安を覚えた蝦夷は、彼を「いずれまた機会はある」と説得し、田村を推すことにしたのです。しかしその結果、蘇我氏内部の方に分裂する事態が生じました。境部臣摩理勢は、自身が馬子に次ぐナンバー2であるとの自負があったようで、蝦夷の風下に立つことを快く思っていなかった節があります。そこで山背を擁立しようとしたわけですが、当の山背が皇位継承争いから身を引いたために梯子を外される形となり、一族の決定に背いて混乱を招いたかどで蝦夷に追及され、泊瀬仲王の邸宅に逃げ込んだ挙げ句、山背の説得を受けて自邸に戻り、命を失うに至るのです(ぼくの説明の仕方が悪かったのかもしれませんが、自殺するよう説得したのではなく、抵抗を止めて自邸に戻るよう説得したのです。『書紀』によれば、このとき山背は、「お前が大事に思っている先王は、『もろもろの善をなせ、もろもろの悪をなすな』と遺言した」と、厩戸の言葉を持ち出しています。これを穿って読むなら、やはり厩戸と摩理勢は外交という任務を共にしていたのだといえるかもしれません)。この事件の余波は大きく、恐らくは摩理勢とともに外交に当たっていたと思われる、朝廷において蝦夷に次ぐ地位の阿倍臣麻呂が蘇我氏への協力を見直し、田村=舒明の政治グループに入ってゆきます。事態を傍観していた蘇我氏のナンバー3、倉山田石川麻呂も本宗家に対する不信感を強めてゆきます。この阿倍麻呂と蘇我石川麻呂が、乙巳の変のクーデターにおいて、田村=舒明の息子である中大兄を支える二大勢力になるわけで、大化の改新への動きはここから始まったと考えられるのです。