授業の最初で旧約聖書が自然破壊の根拠となったとあったが、それは現在批判されている。現代環境問題を論じるとき、インテリはこの点を指摘するが、もう少し研究してからいってほしい。

うーん、ぼくの説明の仕方が悪かったのかもしれませんが、「創世記」の記述をもとにキリスト教の責任を問うことは、リン・ホワイトが1960年代に指摘したことながら、それが誤っていることは、環境倫理の世界ではもはや常識です。ぼくも、10年以上前に編んだ本の総論で述べましたし(『環境と心性の文化史』上巻、勉誠出版、2003年)、神学部との関係で行っている各種の講義でもお話をしてきました。ただし、「創世記」の一節がもともといかなる意味であるかということと、それが政治的・社会的にどう解釈され、人間の行為の正当化に利用されてきたかということとは、別問題です。例えば、キリスト教ガリアやゲルマンに布教に入る際、聖書を根拠に自然崇拝と密接に結びついたアミニズムを解体したこと、修道院が開発=農耕=文化=神の恩恵、未開=森林=野蛮=悪魔の二項対立図式に基づき、王や諸侯の経済的利害・政治的意図にも支えられて、ヨーロッパの森林を次々に耕地に変えていったことは歴史的事実です。森林がいかに忌むべきものとされたかは、4〜5世紀の聖人伝以降、教学的な書物のなかにも度々みることができます。