日本国が、アイヌを先住民として公式に認めたのが2008年として、しかし教科書には、それ以前から先住民としての扱いで書かれていたと思います。教科書がナショナル・ヒストリーの現れとするならば、この矛盾はどこから来るのでしょうか。 / アイヌも琉球も先住民族であるという認識を普通に持っていましたが、国はなぜ、その当たり前の事実を認めようとしないのでしょうか。そのことに何のメリットがあるのでしょうか。

まず、検定教科書がナショナル・ヒストリーの提供メディアであることは間違いないとして、その記述すべてを国家主義と価値付けることはできません。もしそうなら、教科書の内容は非民主的なものとなり、事実などほとんど影を潜めてしまうでしょう。そのうえで問いへの回答ですが、アイヌをめぐる教科書の記述は、概ね歴史的事実を踏まえて書かれています。しかしそれが教えられることで、政府がアイヌ先住民族とは認めていなかった、琉球王朝主権国家とは認めていないということが、覆い隠されてしまうことになるのです。政府がアイヌ先住民族と認めていなかったのは、それを国連に対して正式に承認した場合、その権利を守るために果たさなければならない種々の義務が生じるからです。国連に強制力はありませんが、世界的な批判を免れるためには、これまでの抑圧の歴史を踏まえた謝罪、保障も必要になってくるかも分かりません(このあたり、日本のアイヌ政策は、未だアイヌの人々にとって満足のゆくものには至っていません)。琉球の場合も同様で、同王朝が主権国家であった、すなわち日本はそれを侵略し併合したのだということを認めてしまえば、基地負担を一方的に求めることはもちろん、場合によっては独立をさえ許容しなければならない。こうした政府にとっての「弊害」を回避したい目論見を覆い隠す、教科書はそうした役割を担っているともいえるのです。